大和は国のまほろば。。。
まほろばの国から、旬の奈良を、徒然なるままに
蘇我入鹿の邸宅あと見つかる??
ニュ-スによると、明日香村の甘樫丘の東南ふもとで、7世紀の建物跡や塀跡、焼けた土などが見つかり、蘇我入鹿の邸宅の可能性が高いそうです。
奈良文化財研究所が、国営飛鳥歴史公園の整備に伴い725平方メートルを発掘したところ、掘っ立て柱建物跡5棟と長さ12メートル以上の塀跡が見つかったそうです。
奈良文化財研究所のHPによると、この発掘現場の現地見学会が、11月16日(水)10:00~15:00に開催されるみたいです。 場所は、
こちら!
見に行きたいけど。。。
無理かな。。。(;>_<;)
天皇家をしのぐ勢いを誇ったとされる飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷と入鹿親子は、644年に甘樫丘に家を並べて建て、天皇のように蝦夷邸を「上の宮門」、入鹿邸は「谷の宮門」と呼んだという。邸宅は城柵で囲まれ、門のそばに武器庫があり、武装した兵が警護したと日本書紀に、記されています。
644年ということは、蘇我氏が滅ぼされた大化の改新のわずか1年前。
栄華を誇った蘇我氏の悲哀を改めて、感じます!
飛鳥は、まだまだ未知の世界。ロマンが広がります(^_-)-☆
写真は、甘樫丘からみた景色です。
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奈良テレビのサイトより引用
大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅とみられる建物の跡が明日香村にある甘樫丘(あまかしのおか)で見つかりました。
日本書紀の記述を裏付ける資料として注目されます。
調査されたのは、飛鳥京跡から北西に約1キロ離れた甘樫丘です。
この場所から7世紀台のものとみられる5棟の建物跡や土器などが見つかったほか、7世紀に大規模な整地が行われたことなどが分かりました。
建物のひとつは横10・5メートル奥行き3・6メートルと推測されます。
日本書紀には大化の改新の前年、「蘇我蝦夷と入鹿の親子が甘樫の丘に邸宅を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよんだ」と記されていて、調査した奈良文化財研究所では蘇我氏の邸宅跡ではないかとみています。
また、今回の発掘現場は甘樫丘の谷の部分にあたるため、入鹿の邸宅だった可能性が高まっています。
7世紀の大和政権で天皇をも凌ぐほどの勢力をもっていた蘇我氏は、天皇中心の中央集権国家を目指す中大兄皇子と中臣鎌足によって滅ぼされ、大化の改新がはじまりました。
日本書紀には入鹿が討たれたあと、父の蝦夷が邸宅に火を放って自害したとも記されていて、これを裏付けるように平成6年には今回の調査地の南側から焼けた壁土や木材などが見つかりました。
今回の調査でも建物跡のそばから、新たに焼けた土や炭などが見つかっています。
ただ、見つかった建物には7世紀前半のものと後半のものがあるため、奈良文化財研究所では今後、さらに調査範囲を広げて建物の年代を特定したいとしています。